一般人にも、信者にも
読みやすく書いたつもり。
池上彰さんが、第23回参議院選挙で、
政教分離について、佐々木さやか議員に、
質問をぶつけていて、印象に残った。
佐々木さやか議員は、創価大学の法科大学院を
卒業した弁護士であり、創価学会員である。
埼玉の大学を卒業した人間が、神奈川選挙区で当選した。
池上:
弁護士でいらっしゃいますから、
法律に詳しいと思うんですが、
視聴者の方から質問がありましてね。
その中で、公明党と創価学会の関係、
政教分離の憲法の原則に違反しないのか、
という質問がありました。
これには、どのようにお答えになりますか。
佐々木さやか:
政教分離といいますのは、
政府ですとか、国が、まぁたとえば、
個人の宗教を制限したりとか
押し付けをしたりとか、宗教に介入すると、
それを禁止をしている原則でございます。
ですから、まぁたとえば、
創価学会の皆さんが、
公明党を支援をしてくださると、
それは、通常の支援と同じものでありまして、
政教分離には、反しません。
【政教分離ってなに?】
「国及びその機関は、宗教教育その他
いかなる宗教的活動もしてはならない。」(第20条3項)
と憲法は規定している。
(判例学説は、コレ自体は、制度的保障であるとする。
簡単にいえば、人権そのものではない、ということ。
「政教分離"権"」は存在せず、
「信教の自由」を制度として保証する役割を果たす。)
じゃぁ、一般的に、
第20条3項がどんな場面で問題になるのか。
裁判では、一定のパターンのときに問題になる。
・「市長が」地鎮祭をしたり(合憲)、
・「県知事が」玉串料を収めたり(違憲)、
・「市が」神社に土地を無償提供したり(違憲)、
全部主体は「国(等)」なんだよね。
なんで、合憲と違憲で、判断が割れるのか、というと、
1.一般的行為と宗教的行為を完全に分離できないから。
2.宗教的行為を全て排除すると、かえって、
国(県市町村)が、機能不全になるから。
可愛い例を上げれば、
クリスマスは、キリスト教の行事だが、
「市営」の保育園がクリスマス会だけやって、
ハヌカ会(ユダヤ教)はやらないと、どうよ?とか。
1.そもそも、クリスマス会でプレゼント交換は、
(キリスト教会にいったり十字架に願ったりしない限りは、)
特別に宗教的な意味合いはなさそうな感じがする。
2.それに、クリスマス会も禁止!みたいなことになると、
子どもたちのサンタへの夢が壊されてカワイソウ。
(民間の幼稚園では、クリスマス会をやっていたり)
そういう利益衡量の手段として、
アメリカの「レモン・テスト」っていう基準ができた。
前述の地鎮祭の1977年の判例で、
日本は、アメリカのレモンを盗んで(笑)
「目的効果基準」という
緩めな合憲になりやすい基準を作り上げた。
1.憲法で規定する政教分離原則は、
国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、
国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、
宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、
そのかかわり合いが諸条件に照らし相当とされる限度を超えるもの
と認められる場合にこれを許さないとするものである。
2.憲法20条3項にいう宗教的活動とは、
前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、
およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、
そのかかわり合いが1.にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであつて、
当該行為の目的が宗教的意義をもち、
その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうもの
と解すべきである。
※最高裁は、
2010年の市が神社に土地を無償提供した事件では、
目的効果基準を使えなかった。(継続的な貸借行為だと、
どの時点の目的効果を基準にするか不明なので。)
そのため、比例原則に立ち戻って、総合考慮している。
なにが言いたいかというと、目的効果基準は、
政教分離について絶対不可避の基準ではないということ。
判例だって、いろいろ考えて結果をみて決めてるってこと。
【佐々木発言は、正しいのか】
佐々木発言だけでなく、
公明党のスタンスは、
そういうことで、
概ね統一されている。
でも、本当に政教分離に反しないのか。
佐々木:
政教分離といいますのは、
政府ですとか、国が、まぁたとえば、
個人の宗教を制限したりとか
押し付けをしたりとか、宗教に介入すると、
それを禁止をしている原則でございます。
前段は、政教分離の目的効果基準を、
言っているわけで最高裁の立場と同じである。
だから、判例に従っていて、「正しい」。
ここでポイントは、
・「政府」(や)「国が」と、
主体を明らかにしていることだろう。
佐々木:
ですから、まぁたとえば、
創価学会の皆さんが、
公明党を支援をしてくださると、
それは、通常の支援と同じものでありまして、
政教分離には、反しません。
後段は、前記の目的効果基準に、
あてはめて評価する作業をしている。
ここでポイントは、
「創価学会の皆さんが」(公明党を支援)
と、主体について
「政府や国が」(目的効果基準)ではなく、
「創価学会の皆さん」=「宗教団体が」と
当てはまらないことを示していることにある。
そうであれば、政教分離違反にならないだろう!と。
まとめると、政教分離(20条3項)には違反せず、
違憲ではないよ、ってこと。
【違和感】
でも、なんか違和感を感じる日本人が多いのではないか。
違憲ではなくとも、問題があるんじゃないの?
「宗教政党」という概念がある。
・創価学会を支持母体とする、公明党
・幸福の科学を支持母体とする、幸福実現党
・オウム真理教を支持母体とする、真理党
上の2つは、現在も活動している政党であり、
最後の1つも、過去に現実に政治活動をしていた政党。
はじめに、宗教政党にポジティブな材料を示すと、
宗教政党は、世界的に見て、そんなにレアな存在ではない。
・Christian Democratic Party(キリスト教民主党)は、
世界22か国(以上)において、現役で活動している。
・イスラム諸国やインドでも、宗教政党は存在する。
宗教政党は日本特有じゃないんだから、
宗教政党の存在自体が問題なわけではない。
それでも、なんか違和感を感じる。
・日本人の多数派の宗教観。
日本人は、宗教をガチでやっている人は、少数派である。
※ガチ:毎週、集会や教会にいき、お布施や布教する人のこと。
それでも、神様の存在を真っ向から否定する人も、少数派である。
日本人の多数派は、神様はいるとか、神様はいて欲しいとか、
超越的な存在がいること自体は、なんとなく信じている。
でも、それが唯一神ではなく、多神教な感じ方をしているだけ。
※たとえば、「いただきます」を言う必要なんて、世界的にはない。
しかし、日本人として育ってきた人は、「いただきます」と言う。
自然にやっているだけだろうから、そこまで意義深くはないけど、
本来は、食べ物自体の命や自然、作ってくれた人への感謝がこもっている。
それは、神道とか仏教ともまた異なる宗教観を根源にもつ。
※また、日本では、ドラゴンボールで
ピッコロやデンデが「神様」として扱われている。
多神教な日本人にとって、彼らも1つの神として見れる。
しかし、英語圏では「God」を避けて、
「Kami」という日本語で表現されている。
緑色のナメック星人が「神」や「God」だと、
唯一神を信じる宗教にとって不都合だからである。
そういう日本人の多数派の人にとって、
「政治」は、自分達の利益や国益を考えてなされるべきもので、
「政党」は、政治的信条を実現するものである。
これに対して、日本人の少数派にとって、
「政治」は、信者の利益や宗教団体の利益を考えてなされるべきで、
「政党」は、宗教信者の政治的信条を実現するものである。
たとえば、アメリカの共和党(非宗教団体)は、
宗教団体に配慮して、人工妊娠中絶を禁止する政策を主張する。
政治において、女性よりも、キリスト教の教義が優先されるわけである。
妊娠22週未満の中絶が合法な日本人からすれば、
宗教的価値観よりも、強姦等で女性が妊娠したらカワイソウと思うだろう。
・そんな状況で。。。
そんな状況で、
日本の宗教団体や信者がやっている
政治活動を見ると、すごく違和感を感じる。
日本人は、無党派層が多いと言われる。
それも、結構フィーリングで決めてる人が多い。
(だから、2009年の鳩山由紀夫民主党なんかに投票する
信じられない日本人が多くいたわけだ。笑)
無党派層は、特定の政党のために、選挙活動をしない。
そうすると、組織票が動くことは、少ないわけである。
これに対して、宗教団体は、特定の宗教政党に対して、
すごーく熱心に応援活動をしている。
創価学会員は、150票数獲得が目標と、
同番組で信者が発言していた。Friend(F票)という。
別に、宗教団体の信者同士で、結束を強めることで、
宗教団体の信者数分の投票数を獲得するのは、問題ない。
しかし、非信者の家族、友人、知人などに対して、
電話やメールで投票を呼びかけて、無党派層を取り込むと、
それって、特定の宗教を信じているわけではないのに、
過大に宗教政党の声を大きくしてしまうのではないか。
民主主義の多数決原理に、イビツな圧力が働いてしまう。
本来であれば、宗教政党以外の(大衆)政党のうち
「どれかにフィーリングで入れよう」または、
「政策を見てフィーリングで入れよう」と考えていたのに、
そういう人の投票が、宗教政党に流れてしまうのではないか。
そういう危険がある。
それが、宗教政党は政教分離では?
といわれるような、根源的な違和感の正体であって、
そんな違和感は、日本人の宗教観に特有なものだと思う。
佐々木:
ですから、まぁたとえば、
創価学会の皆さんが、
公明党を支援をしてくださると、
それは、通常の支援と同じものでありまして、
政教分離には、反しません。
そういう視点から、佐々木発言を見ると、
・創価学会信者が、公明党を支援する150倍の影響力と、
・大衆政党支援者が、大衆政党を支援する小さな影響力とでは、
「同じもの」とは言えない差異があると感じる。
宗教政党が本来持っている影響力を超えて、
150倍もの得票数を得る(可能性がある)ことで、
イビツな圧力が民主主義に加わってしまい、
日本人の多数派のもつ価値観が、
正しく政治に反映されることがなくなり、
多くの無党派層が望む政治よりも、
より宗教色の強い政治になってしまう。
そういう危機感が、直感として、まずある。
それが、法律を知らない素人にとって、
「政教分離だから違憲無効だ!」という意見になる。
※そうすると「政教分離じゃないから問題ない!」
という答えは、公明党にとって、逃げでしかない。
問題の本質は、民主主義への圧力の方なのだから。
(コメントを受けて太字追記)
【おまけ:憲法論の応用。違憲の可能性】
現在非課税の「宗教法人税」について、
公明党(議員)が参加して、改正案(課税案)に
「賛成すること」も、「反対すること」も、
「議案を出すこと」も、「議案を握りつぶすこと」も、
実は、政教分離違反の可能性があるんじゃないか。
※宗教法人税の問題は、顕在化していないので、仮定の話として。
・課税に「賛成すること」
・課税の「議案を出すこと」
宗教法人税の課税をすると、
実は、資金が潤沢な創価学会は潰れずに、
他の神社神道などが金欠に陥ってしまう。
公明党がこれを恣意的に行った場合、
他の宗教への「圧迫、干渉」の効果をもちうる。
・課税に「反対すること」
・課税の「議案を握りつぶすこと」
宗教団体への法人税非課税を維持することは、
創価学会を含む支持母体への利益誘導になる。
財政赤字が続く日本で、消費税増税が叫ばれるのに、
宗教法人税だけが特別に免除されている。
その当否はともかく、議論はするべきだろう。
自民党が、宗教法人税の課税をする方向にいけば、
公明党は、支持母体のために、止める方向に働きかける。
つまり、宗教法人税をとれない代わりに、他からとることになる。
これって、無党派層にとっては、利益にならない場合が多い。
日本人の多くの宗教観を、
仮に「日本人宗教」とでも呼ぶのであれば、
公明党が、創価学会に都合が悪いことに
消極的に「動かない」という不作為は、
政教分離違反になりうるのではないか。
このへんは、裁判例や学説でも考えられていない。
(立法不作為が絡むので、判例だと厳しい。)
新しいテーマなので、憲法学者に頑張って欲しい。
〆
創価大学法学部卒業者より。『政教分離』を問うべき『主体』は、『国家』である。もともと母体である憲法は、『憲法99条:遵守義務規定』を見れば解る通り、『国・地方公共団体』という『公立公営組織:公人』に対して、『作為・不作為』を求める法であり、殊に『政教分離』における『制度的保障』とは、あくまで『国家の制度』の事であって、それ以上でもそれ以下でもない。上記『99条』の『公人』として列挙されていない、『民間人・私立私営団体:私人』が何をしようが、『政教分離』の問題とは全く無関係である。このページにも津地鎮祭訴訟最高裁の見解が載せられているが、『国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、』と示す通り、『国家』に対して問うている。つまり『政教分離』の『政』とは、『国家』の事を指し示しているのであって、『政党』や『政治』の事を言っているのではない。参考までに『政教分離』の英訳は、『Separation of Church and State』=『州と教会の分離』である。『Church(教会)』と分離すべき対象は、あくまで『State(州)』という『公立公営組織』を指し示すものであり、間違っても『Politics(政治)』や『Political-Party(政党)』という単語は使われていない。日本語訳で『政』という文字を当ててしまった事から、『政治(政党)と宗教の分離』という妙な誤解が広まってしまった背景がある。議論上の誤解を避ける為、専門家は『国教分離』という別名を使用する場合が多い。どちらかと言うと、この『国教分離』の方がもともとのニュアンスに近いと言える。
返信削除次に『政党』は『国家』に該当しない。逆転の発想から言えば、仮に『国家』に該当してしまうなら、『宗教政党』=『国家+宗教』となってしまい、『政教分離』の観点から、世界的に見ても『宗教政党』の存在は認められないものになってしまう。逆に『宗教はアヘン!(共産主義思想)』みたいな『宗教を軽んじる思想の政党』も存在する訳で、これも『津地鎮祭訴訟』に示される、宗教に対する『援助』・『助長』にはならずとも、逆に『圧迫』・『干渉』には該当する為、『政教分離』の観点から問題になってしまう。従って、『私立私営団体』という観点から、政党は『私人』として扱われている。つまり『私人』であるが故、『政教分離を求められる対象に非ず!』という結論が待っている。
>公明党が、創価学会に都合が悪いことに消極的に「動かない」という不作為は、政教分離違反になりうるのではないか。との事であるが、『私人』である『政党』がどの様な対応をしようとも、『政教分離』に反する事は一切無い。
『では、公明党は創価学会の為の政党であっても良いのか?!』・『全国民の代表者ではないのか?!』との意見が噴き出す事は、想像に難くない。しかしながらそもそもにおいて、『万能中立政党』なるものは存在しないのではないだろうか。『自由主義政党』は『共産主義支持者』の意見を集約出来ないし、『共産主義政党』は『自由主義支持者』の意見を集約出来ない。だからこそ『自由民主党』や『日本共産党』として両者が政界に存在する訳である。逆に『自由共産党』みたいな『ニューハーフ政党』を設立しようにも、生粋の『男性党(自民党)』・『女性党(共産党)』の意見を集約できる筈が無い。従って例え『公明党』が『創価学会思想に満ち溢れた政党』であったとしても、『幸福実現党』が『幸福の科学思想に満ち溢れた政党』であったとしても、それぞれが『宗教的な支持団体の意見』を持ち寄って国会に集ったとしても、それはあくまで『その政党と宗教団体における双方の合意』であり、『私的自治の範疇』である事から、『・自・由・』と言わざるを得ないし、ましてやそこに所属しない『部外者』がいちいち騒ぐ事でもない。学校のクラス会議で、『男子生徒』は『男子としての主張』を代弁し、『女子生徒』は『女子としての主張』を代弁する。『男女平等』が求められるが、それは『クラス全体の議決結果』が『男女平等』であれば良い訳で、男子生徒側にも女子生徒側にも一切非は無い。『担任の先生』から、『クラス全体の責任』として、『男女平等に反するから、議決無効!やり直し!』と言われるぐらいである。国会においても同様であり、実はそうした原理を裏付ける『憲法の条文』すら存在しているのである。
――――――――――――――――――――――――
『日本国憲法51条:議員の発言・表決の無責任』
両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
――――――――――――――――――――――――
最後に『宗教法人課税』についての話をするが、現在『課税対象』とされている『個人所得の発生する特定営利34事業』を除いて、固定資産税を含め非課税としている経緯があるが、これには幾つか理由がある。
①『配当金』という制度が存在しない。
『会社法人』で言うところの『法人税』という名前に釣られて誤解している人が多いが、『法人税』とは、『法人に対して課せられる税』という意味ではなく、『資本家』や『株主』という『配当金で生活している人の個人所得』に対する課税である。言ってみれば『所得税』と同じ位置付けである。課税方法として、『配当後』に課税するのではなく、『法人の手元にある段階』で課税を行い、『課税後の額』をそれぞれに配当する為、『法人税』と呼ばれている。(法律の名前が紛らわしい!)
これに対し『宗教法人』の場合、『宗教法人法』において『配当金制度』自体が禁じられており、課税すべき『配当金』が存在しない為、『法人税』を課す事ができない。従って『会社法人同様、宗教法人にも法人税を課税すべきだ!』との意見は的外れなのである。前述したが、『個人所得特定営利34事業』には『宗教法人用の軽減課税』が行われ、『宗教法人職員』には、『所得税』が課税されている。
②『個人の宗教的行為』に対する『公務員の介入』の問題
前述の通り、『憲法で定めた政教分離原則』は、『国家の宗教的中立性』の原則として、国およびその機関に従事する公務員は、宗教に対しての『特権』となる様な『援助』・『助長』の行為や、逆に『弾圧』となる様な『圧迫』・『干渉』の行為を慎まなければならない。元来『布施』というものは、『浄財を神仏に捧げ、ご利益を得よう!』という、『信教の自由(内心信仰の自由)』における、『信者個人』の『供養の精神』が基礎となるものである。『他人が覗き見たり』するものでもなければ、ましてや『税務調査』と称して、『公職者がその量を確認』するものでもない。『収支』における『収入』の部分で、『誰々からの布施の額は、いくらいくらである!』というのが解るのは、『内心信仰の自由』において非常に問題がある話である。
また別の問題として、もし仮に国が宗教法人の布施に税金を課したと仮定して、宗教法人を経営する者が、『どうせ税金が高くなるなら、いっそ信者からの布施を断ろう!』との結論に至ってしまった場合、結果論として、『国の課税行為は『信者の宗教行為(布施)』を間接的に妨害した!』という事になってしまう。要は宗教に対する『圧迫』・『干渉』に該当し、これは政教分離の問題となる。
③『受益者負担の原理』における『税の使い道』と『政教分離』の問題
最後に徴収した『税の使い道』の話であるが、基本的に税には『受益者負担』という原理があり、例えば『住民税』などは、
行政側が住民に対して『何らかの行政サービス』を行う事を念頭に徴収されるものである。従ってサービスに掛かる資金は、『サービス受益者』となる『市町村住民』が支払うという話で、『納税者』=『サービス受益者』の関係が成り立つ話である。宗教者も住民である事に何ら変わりがないので、宗教者個人として当然『住民税』を支払う訳だが、これも『受益者負担』と言える。
『消費税』に関しても、『税と社会保障の一体改革』と呼ばれる様に、
『社会保障』という名の『行政サービス』の拡充を行います。
↓↓↓
つきましては、『使用財源』が足りませんので、『増税』を行い『税収アップ』を図ります。
↓↓↓
『社会保障』の恩恵を受ける可能性があるのは『国民一人ひとり』ですので、
『全国民』がもれなく『社会保障の受益者』となります為、
『消費税増税』の様に『国民一律に渡る課税』をしても構いませんよね?
という理屈なのであり、これこそが『受益者負担』の概念である。この原理を踏み外すと、『サービス受益者でもない人』から理由無く税金を巻き上げる話になってしまい、何ら『代替利益』も無いのに、市町村の都合で私有財産が削られるという、『国民の私有財産権(憲法29条1項)』の否定にもつながってしまう。つまり『憲法違反!』という事になる。
ここでもし仮に別途『宗教法人から税を徴収』するとなれば、『納税者』=『宗教法人』・『サービス受益者』=『誰なの?』という話になる。普通に考えれば『納税者』と『サービス受益者』の関係から、『サービス受益者』=『宗教法人』になる訳だが、その論理で行くと今度は、『地方公共団体』が『宗教法人』に対し、『何らかの行政サービス』を提供しなければならない、という『奇妙なパラドクス』にはまってしまう理屈である。それは『国・地方公共団体が宗教法人の経営をサポートした!』として、逆に憲法89条の『政教分離原則』に抵触してしまう事にもなる。従って現行制度では、国・地方公共団体自体が、宗教法人にから『行政サービスの提供』を求められる事嫌って、『極力課税せず!』との見解を保っている。結局宗教法人から税を徴収したとしても、『その税の使い道』として『政教分離原則』が存在するが為、『納税者に対するサービス』の図式が成立せず、そもそもにおいて、『徴収しない!』という理屈になっているのである。
>つまり『政教分離』の『政』とは、『国家』の事を指し示しているのであって、『政党』や『政治』の事を言っているのではない。
削除そういう形式論は、本文に記載してありますね。
>まとめると、政教分離(20条3項)には違反せず、
>違憲ではないよ、ってこと。(記事より)
それを前提としても、
実質面を見ると、「妥当性を欠く」からこそ、
妥当性を欠くの違和感について、
法律論に触れたことがない一般人からは、
(形式論を無視して)「政教分離違反だ!」と批判されている。
「政教分離」というテクニカルワード(法律上の手段)が問題でなく、
宗教団体に加入しないの多くが感じる違和感こそが、
論じられるべきではないか、というのが、記事本文の趣旨です。
政教分離の主体について、
「政党」=結社には確かに直接適用がなくとも、
「国会」=立法機関は国として当然に違憲審査の対象になる。
判例は、立法不作為(国会)について違憲判決を出している。
(在外邦人選挙権制限違憲訴訟)
そして、他の宗教政党はともかく、
現状、公明党は、自民党とともに与党にいるわけで、
野党とは異なり、問題は重大になってくるわけです。
さらに言えば、
自民党や共産党が、各圧力団体や支援団体の支援を受けていることと、
公明党や幸福実現党が、創価学会や幸福の科学からの支援を受けていることは、
その『支援の割合』が大きく異なる点で、クリティカルに違います。
もし、そのような批判を取り除きたいのであれば、
公明党は、大衆政党化するしかないのではないか。
宗教法人税について、
「納税するべきだ」「納税しないべきだ」という
議論の中身は、宗教団体に有利に作用するかは、
実質的には、宗教団体の収益の大きさに依存します。
そのことは、リンクを張って記事に書いてありますね。
その中身について、長く書かれていますが、本質ではありません。
・本質は、国会で議論をするべきだってことなわけで、
それさえタブー視されてしまう
「影響」があれば、そのことが政教分離違反になりうる、
そして、それが立法不作為(国賠)違法事由となりうる、という、意見です。
>それを前提としても、
返信削除>実質面を見ると、「妥当性を欠く」からこそ、
>妥当性を欠くの違和感について、
>法律論に触れたことがない一般人からは、
>(形式論を無視して)「政教分離違反だ!」と批判されている。
>
>「政教分離」というテクニカルワード(法律上の手段)が問題でなく、
>宗教団体に加入しないの多くが感じる違和感こそが、
>論じられるべきではないか、というのが、記事本文の趣旨です。
つまりその『違和感』の主体は、『法的根拠』を伴わないという事から、『単なる感情論』という事ですよね?
それは即ち『法的には問題ないが、感情的に許せない!』という『ヘイトスピーチ』という事です。
『妥当性を欠く!』と主張しても、その『妥当性』なるものが『法的根拠』を持ち得ない以上、
所詮『個々人の感情』という『不確定要素』に依存するしかなく、人によっては『妥当!』と感じる人も居る訳で、極めて曖昧なものです。
例えば私は『鯨の大和煮』が大好物なのですが、『反捕鯨団体シー・シェパード』に言わせてみれば、
私の行いは『感情的に許せない!』行いな訳です。(何がどう許せないのか知りませんが・・・)
それら個々人が抱く『曖昧な違和感』の責任は、あくまで『個々人の感情の問題!』にこそあるであって、
『宗教団体の政治活動の是非』に絡めて論じる話ではない!・『宗教団体の側に責任無し!』
というのが私の主張です。
『法的に問題が無い!』=『その活動はその団体の自由である!』という事です。
もともと個々人における『倫理』なるものは、その環境・民族・宗教によってそれぞれ異なるのであり、
『多民族』や『多宗教』というものは当然『倫理観の衝突』が起き得る訳です。
従ってその様な衝突を回避する為の手段として、
『法』や『法律』・『政令』・『条例』等に従うという考え方が『法治国家』と呼ばれる淵源なのです。
従って以下『日本国憲法31条』が示す通りで、『法的に問題が無い』限りにおいて、
個々人のいかなる行動に関してもそれはあくまで『自由』と言わざるを得ません。
――――――――――――――――――――――――
『日本国憲法第31条:罪刑法定主義』
何人も、法律の定める手続によらなければ、
その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
――――――――――――――――――――――――
むしろ『個々人の感情の問題!』として、
『法や法律の不勉強』であったり、『メディアリテラシーの欠如』という教育問題こそが論じられるべきであり、
間違っても
>もし、そのような批判を取り除きたいのであれば、
>公明党は、大衆政党化するしかないのではないか。
と言う様に『曖昧な違和感』の責任を『他人』になすりつける様な論理は的外れなのです。
>「政党」=結社には確かに直接適用がなくとも、
>「国会」=立法機関は国として当然に違憲審査の対象になる。
その論理は『学校のクラス会の例』と全く同じです。
『男子生徒vs女子生徒』の対立軸の中で、数の関係で『男女不平等な議案』が通ったとしても、
あくまで『クラス全体の責任』であり、『男子生徒側』や『女子生徒側』には過失はありません。
『国会全体の責任』として『違憲審査』が行われたとしても、『政党』や『議員個人』には何ら責任は及びません。
ましてや『政党を組織ぐるみで支持した宗教団体』にも一切無関係な事です。
――――――――――――――――――――――――
『日本国憲法51条:議員の発言・表決の無責任』
両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。
――――――――――――――――――――――――
>そして、他の宗教政党はともかく、
>現状、公明党は、自民党とともに与党にいるわけで、
>野党とは異なり、問題は重大になってくるわけです。
何がどう重大なのでしょうか?
『国会全体』≠『公明党』ですので、『一政党』の単位に『違憲審査』は及びませんよ?
>本質は、国会で議論をするべきだってことなわけで、
>それさえタブー視されてしまう「影響」があれば、
>そのことが政教分離違反になりうる、
>そして、それが立法不作為(国賠)違法事由となりうる、という、意見です。
私が前述した様に
『課税してしまうと、逆に政教分離の問題が発生してしまう!』という話は
ブログ主の言う『影響』には該当しないのですか?
◆税務調査等で公務員が信者の布施額を覗ける。(内心の信仰の自由に対する干渉)
◆宗教法人経営者が課税を嫌って布施を受け取らない。(信者の供養行為を国が間接的に妨害)
◆受益者負担の原則で税を宗教法人への行政サービスに還元すると、国が宗教法人経営をサポートした事になる。
これらの事が既に解っているからこそ、『国会でわざわざ議論しない!』という話です。
そもそも『課税しない!』のは、『課税する根拠(例えば配当金)』が存在しない為です。
>(違和感は)『単なる感情論』という事ですよね?
削除それは、結論(政教分離違反やその他違憲違法の点がナイ)という
結論ありきのレッテル貼りですよ。
直感や感情があるからこそ、それを動機として法律論が構成される。
問題があるからこそ、判例が作り上げられる、立法解決がなされる。
決して、ガッチリ固定されているものではなく、法律は動的なんですよ。
その動機を「単なる感情論」と片付けるなら、
わざわざコメント欄で反論するまでもないんじゃないの?
表現(コメント)だって、「単なる感情論」の集合体ですよ。笑
>人によっては『妥当!』と感じる人も居る訳で、極めて曖昧なものです。
妥当と感じる「人」は、日本では少数派です。
そのことは、記事内で紹介していますね。
曖昧ではなく、明確に、「妥当ではない」という批判があるのが事実です。
そういう批判を受け止めているからこそ、
わざわざ信者さんが「政教分離 公明党」とかでGoogle検索して、
このブログを見つけて、反論コメントを書いていく状況が生まれてくる。
妥当!と感じているのなら、批判なんて無視すればいいんじゃないの?
「う~ん、創価大学ではこう教えこまれたけど、自信がないなぁ」という
疑問があるからこそ、議論の中で、自分の弱点を探している印象を受けます。
ココマデ、無意味な水掛け論。
>『国会全体の責任』として『違憲審査』が行われたとしても、
>『政党』や『議員個人』には何ら責任は及びません。
筆者は、公明党や公明党議員個人の責任を追求しろ、なんて書いていませんよ。
だから、その返信は的外れです。
しかし、裁判例で、政教分離違反となれば、それは、一般国民の投票活動に影響を与えます。
別に、裁判例が出なくとも、政教分離の疑いがあるとの批判があれば、投票活動に影響はありますね。
んで、それは、「政治責任」という名の責任です。
当然ですが、政治責任に罪刑法定主義なんて適用されませんよ。
>宗教法人税について
前述のように、「本質ではない」のですよ。
記事本文にも、以下のように書いてありますね。
>※宗教法人税の問題は、顕在化していないので、仮定の話として。
宗教法人税は、一例に過ぎないわけで、他にも利害対立の問題は生じるわけです。
その点について、熱く論じたいのであれば、このコメント欄は、不適切ですよ。
>これらの事が既に解っているからこそ、『国会でわざわざ議論しない!』という話です。
一応、参考知識として入れておいてください。
◆を入れて主張された話は、決して絶対的な話ではありません。
たとえば、「宗教法人のうち、政治活動をするものについては、宗教法人税を課税する」という
「立法」も十分に考えられます。
支援団体の宗教法人税が非課税であることは、他の支援団体よりも有利になりますよね。
他の支援団体として、株式会社も政治活動をすることができます(八幡製鉄事件)。
株式会社は、法人税を取られている中で、政治活動をしている。
宗教団体は、宗教法人税を取られずに、政治活動をしている。明らかに宗教団体は有利です。
このような弊害を除去すべく、前記のような規制を設けるという
「議論を国会でする」ということは、不要ではなく、むしろ必要なことでしょう。
それと、上記例は、あくまで、参考知識として受け取ってくださいね。
「いいや!そんな立法例は考えられない!平等原則違反だ!」みたいなご返信は不要、ということです。
・本質
1.イママデの政教分離違反の議論が、直接的に「創価学会の公明党支援」という
「強い関係性そのもの」に着目して行われてきた。
そして、テクニカル(目的効果基準)に考えれば、政教分離違反には合致しない。
2.しかし、実質面を捉えると、「両者の強い関連性」や「利益誘導の関係性」、
「(弱小野党とは異なり、)与党であること」から、立法作為・立法不作為に影響がある。
最高裁の2010年の市が神社に土地を無償提供した事件では、
目的効果基準を採用せず、比例原則に立ち戻った総合考慮による判断をしている。
だから、過去に言われてきたテクニカルな問題はクリアできる。
そして、これらの政教分離違反を根拠として、立法不作為(国賠)違法事由となりうる。
2.の部分が本質なんですよ。
・結果としてどうなるか。
法律的に最終的にどうなるか、が気になるようなのでお答えしましょう。
国賠の違法事由になったからといって、今いる公明党議員が直ちに職を失うわけではありません。
原告1人あたり5000円が国から支払われるだけです(在外邦人選挙権制限違憲訴訟の例)。
しかし、判決文の中で、「政教分離に違反する」と記載されるとしたら、
(信者以外の)一般国民の投票活動に影響が出るのは、間違いないでしょうね。
そうすると、次回の選挙では、苦戦を強いられて、政治責任を問われることになります。(前述)
それは、「罪刑法定主義」とか「議員の免責特権」とは全く無関係な。民主政の過程・民主主義です。